もののふ

所謂防人,為飛鳥時代至平安時代為了守衛筑紫、對馬、壹岐以及西海的邊境,

會徵招農人為兵,這些士兵就稱為「防人」,大部分是東國(あづまのくに,吾妻)地方的人。

防人制度從六六四年延續到八二六年,期間有二千至三千名防人派駐邊防。

在『萬葉集』中的防人歌,由他們與它們近親所唱之和歌共有九十九首。

相對於「防人系女子」稱自己為「つるぎ(劍)」,在萬葉集之防人歌,

 

有人就自稱自己為「醜之御楯(守護天皇的卑微之盾)」,共有六處,例如下文這首-

從今往後 將毫無顧慮地 

成為大君的 卑微盾牌

挺身而出的我

然而另一首

吾妻啊 充滿愛慕之情

飲用的水中 都還出現妻的身影

永世難忘

父親和母親 如果是花的話

我在外出時

就可以帶著同行了

這可和可以為大君(天皇)犧牲生命的士兵形象大不相同,

防人也為自己悲嘆,以及因為對戀人的愛慕而產生拉扯。

這裡也強調他們並不是志願成為防人的,只是因為收到徵兵令之緣故,

這與後來太平洋戰爭中特攻隊員所遺留的手札之間,有著令人驚異的相似性....

說到特攻,風鳴翼在也展現「神風特攻」之精神......惡趣味。

不過現在有老婆了,風鳴翼,「君切勿死(君、死にたもうことなかれ)」

另外在IZUMO4的氣吹戸主,也展現武士道精神(武士道就是為主公而殉死)還搞切腹那一套,

我原本還在想為什麼把風神氣吹戸主設定成「武士(ぶし)系」女子,

現在倒是清楚明白,從風神(氣吹戸主)與神風(指特攻而非神風伊勢)如武士般的自殺攻擊聯想,

來婊一下武士(ぶしどう)道的玻璃心與太平樣戰爭視士兵之命如草芥。

話說,武士道常被拿以西方騎士道比擬,甚至還有日本人認為騎士道不允許自殺,

是因為基督教的禁止,但是我倒覺得日本武士道追求「自殺」才是違反人性與玻璃心的表現吧(笑)

另外在山本大媽的「Chaos Labyrinth 」從八岐大蛇之巫女東雲瑞姬與主角的對話中,

也婊了武士道與騎士道對女人的態度差別,

前者不尊重女人後者可是發展出紳士精神,如出自江戶時代的大和國來自歐洲留學的瑞姬,

就跟男主角說如果小女子有不對之處,請不用客氣責賞巴掌來罰自己。

主角耳聞東方大和國野蠻尚武,但沒想到女子地位如此卑微,而覺得瑞姬就此留在歐洲就好。

另外,關於武士還可訓「もののふ」則是與物部氏有關。

 

詳見中山 太郎 所著之『日本巫女史』:武士の事を「もののふ」と稱したのは、

此れ等の者が物部氏に從屬してゐた為で、「もののふ」は物部の轉訛である事は明白である

『倭訓栞』に「もののふ、物部と書けり、もののべとも云ふ。(中略。)神武帝東征し給ひし時、饒速日命を以て、

內物部を率ゐて武威を示させ給ひしより物部氏の任と成れるを以て、後世に至つても武士を專ら物のふと云へる也。」

と有るのは、極めて穩健な考證であつて、然も物部氏と武士との關係を簡明に說示した物である。

然らば、問題は更に溯つて、(一)何故に物部氏が斯く武士を統率したのであるか、其れと同時に、

(二)物部とは抑抑何事を意味してゐるのであるかに就いて、解說を試みねば成らぬ。

而して(一)の物部氏が武士の棟樑と仰がるるに至りし事情に關しては

『舊事本紀』卷五天孫本紀の弟宇摩志麻治命の條に、大略左の如く記されてゐる。

弟宇摩志麻治命。【亦云味間見命,亦云可美真手命。】  

(上略。)磐余彥尊,【○神武帝。】欲馭天下,興師東征。往往逆命者,蜂起未伏。

中州豪雄長髓彥,本推饒速日尊兒宇摩志麻治命為君奉焉。至此乃曰:「天神之子豈有兩種乎?吾不知有他!」

遂勒兵距之。天孫軍連戰不能戡也。于時宇摩志麻治命不從舅【○長髓彥。】謀,誅殺佷戾,率眾歸順之。

時天孫詔宇摩志麻治命曰:「長髓彥為性狂迷,兵勢猛銳。至於敵戰,誰敢堪勝。而不據舅計,

率軍歸順,遂欽官軍。朕嘉其忠節!」特加褒寵,授以神劍,答其大勳。(中略。)

復宇摩志麻治命率天物部,而翦夷荒逆。亦率軍平定海內而奏也。(中略。)

天皇定功行賞,詔宇摩志麻治命曰:「汝之勳功矣,念惟大功也。

公之忠節焉,思惟至忠矣。是以先授神靈之劍,崇報不世之勵。今配股肱之職,永傳不貳之美。自今已後,

生生世世子子孫孫八十聯綿,必胤此職,永為龜鏡矣!」云云。

此れに由つて、物部氏の發祥と、同氏が武士を統率するに至つた理由は、略ぼ會得された事と思ふが、

更に(二)の物部と稱する語原の解釋にあつては、

一代の碩學と言はれた本居宣長翁すら『古事記傳』卷十九に於いて、

「もののふ母能能布と云は、名義は未だ考へ得ず。」と兜を脫いだ程の難問題であつたが、

平田篤胤翁が其の著『玉手繦』に於いて、「物とは神也。」と云ふ、彼として誠に珍らしい卓見を唱へ、

更に鈴木重胤翁に據つて、此說が大成されるに至つたのである。

鈴木翁は『延喜式祝詞講義』卷七龍田風神祭の「百能物知人」の條に於いて、概略左の如き記述を為してゐる。

百能物知人。(中略。)師說【○篤胤翁。】に「物知人とは、太兆の卜事を行ふ人と云稱なる事明か也。凡て物と云稱は萬に泛く亘る中に、

神祇を指て云事常に多し、其は御門祭詞に、四方四角より與利疏び備荒び備來む武天の能禍麻我都ひと比登云神の乃云云。

自上往は波上を乎護り利、自下往は波下を乎護り利と有る此同事を、

祈年詞【御門祭詞。】に疏ふる夫留物の能自下往は者下を乎守、自上往は者上を乎守と、(中略。)云へるを對思ふ可し。

○(原註。)御門祭詞には神と云へるを、祈年祭及び道饗祭詞には物と云る者をや。

又『神代卷』に葦原中國之邪鬼と有る邪鬼を、私記にはあしきもの安知岐毛乃と訓み、中昔に物氣等云ふ。又物忌、物狂、物の所為、

憑物の為なる等云ふ物も是にて、此は神と云に同じく泛く云る語也。今云、大物主神と申す御名の物も、

(中略。)八十萬神を領給ふ故に大物主神と申せる也。又『萬葉集』中に鬼字を母能ものの假字を用ゐたる所數多有り。

○知とは深く遠く思慮の智有て、神の所為の幽りて著明シルからぬを知辨る由にて、(中略。)

俗に物知とは今現に見たる小事を辨たる程の人をも云へど、其は事知とこそ云ふべけれ豈イカデか物知とは云はむ。」と云れたるは然る言也。

 \(原註。)但、太兆の卜事を行ふ人を云と云はれたるは當らず、神祇の情狀を古傳に徵し、古說に合せて悟り得る偉人を云ふ也。

卜事は其思慮の至り及ばざるに當て、物為スる成れば卻て未也云云。(以上、皇學館本。但し句讀點は私に加へたのである。)

 我が古代に於ける「物」とは、即ち神亦は靈と云ふ事であつて、


物部とは是等の神亦は靈に通ずるモノノフ母能能布の部曲カキベを指し、

物部氏とは此部曲の宗家、亦は氏上ウヂノカミと云ふ意味に成るのである。

而して此れを基調として古代の戰爭を考へると、古語の戰たたかひは、敲たたき合あひの轉訛であるが、

更に古語で言ひ爭ふ事を「口叩たたく」と云ふのが有る所から推すと、

腕力を以て敲き合ひする以前に、言語を以て口戰ひをするのが、戰ひの式例と成つてゐた事が想はれる

此れは恰も、後世の戰場に於いて、先づ甲乙の兩陣から、代表的の勇者が出て、

一騎打ちの勝負をしてから、合戰が開かれたのと同じ樣に、言靈コトダマの神の殊寵を蒙り、

特に利口辯舌に長じた者(即ち物知人。)が現はれて、

互ひに「言葉戰ひ」をした後に、愈愈兩方の敲き合ひに入る順序と見られるのである。

而して此の「言葉戰ひ」の任務に當る者が即ち巫女であつて、

 

(言靈具現化化XD)

然も其の言語は必ずや呪術的の要素を多分に有してゐた物に相違無い。

前に引用した琉球の俚諺に「女は戰魁」と有る如く、我國に在つても、

巫女の宗源とも見るべき天鈿女神は、常に陣頭に立つ事を傳へてゐるのである。  

而して其れと是れとは、大に趣きを異にしてゐるが、思ひ出すままに記す事は、

私の鄉國である下野國河內郡地方の村落では、明治初年迄、婚姻の夜に、新婦の附添ひとして、

辯舌に馴れた婦人一名が、嫁の行列の先頭に立つて、新郎の家に赴く。新郎の方でも、

同じく口達者の男二名を家前に立たせて新婦を迎へさせるが、其時に先づ聟方の男から、

「大勢して一體何處ドコから遣ヤつて來た?」と問ひ掛けると、嫁の附添ひ女は直ちに、

「若い者に花を遣らうと思つて來た。」と答へるのを序開きとして、

茲に猛烈なる言葉戰ひの場面が展開され、聟方の男は有る限りの奇智を絞つて、無理難題の問ひを發し、

此れに對して、嫁方の女も精根を盡して巧妙に言ひぬける。

若し此の「言葉戰ひ」に、嫁方の女が負ける樣な事が有れば、

新婦の一行は實家へ引歸さ無ければ成らぬ村掟と成つてゐるので、

附添ひ女の責任の大と、舌力の強さとが思はれる。

斯うした一幕が無事に濟むと、今度は婚禮の式に入るのである。  

此民俗は、種種なる示唆に富んでゐるが、其れを言ふと本書の埓外に出るので省略するも、

兔に角に此の附添ひ女の役目こそ、在りし古代戰爭に於ける巫女の任務を偲ばせる物が有ると信じたので、

敢て附記した次第である

二、戰爭の前途を占ふ巫女

內容略,基本上IZUMO4可以見到。

以上內容可與IZUMO4的物部之巫女西洞院綺花對照,可以發現IZUMO4的編劇多少有用功讀過來編寫XD,

既然浦木前輩都將巫女史全部電子化了,要編寫日本神話為主題還有以巫女為主要角色之劇本,

連巫女史都不讀來寫劇本的話,就太不認真了(笑)。