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丹生都比賣神與稚日女尊

關於紀伊國一宮丹生都比売神社所祭祀的丹生都比賣,

「紀伊続風土記」巻之四十八(伊都郡第七)如此記載:

一宮丹生津比咩大神 延喜式ニ曰丹生都比女神社名神大月次新嘗

本国神名帳曰正一位勲八等丹生津比大神とある是なり

丹生津比咩は伊弉諾伊弉冊二尊の御児天照大御神の御妹にして稚日女尊と申し神世より本国和歌浦玉津島に鎮まり坐せり

神功皇后新羅を征伐し給ひし時此神赤土を以て功勲を顕はし給ひし故皇后凱旋の後伊都郡丹生の川上菅川藤代峰に鎮め奉れり

(菅川今筒香と書す 藤代峯上人水呑峠又右堂カ峯或は子粒カ嶽ともいふ

古老伝へて藤代ノ峯ともいひしといふ 其地は上筒香東富貴和州坂本三村の界なり

此辺より流れ出る川を丹生川といふ 西北に流るゝ事五六里にして紀州に入る 此峯より東の方和州に流るゝ

川を又丹生川といふ 神武紀に丹生川上といふ是なり 此辺総て赤土を生するを以て丹生の名あり

又上筒香村により川上東へ登る事三十町許に天照大神顕れ給ひし旧地といふあり

そは丹生明神の訛伝なるへし 又筒香村の西川の下に明神岩といふあり 土人伝へて筒香明神の影向石といふ

是又御鎮座の時始めて下り給へる石なるへし 今上筒香村に丹生四社明神を祀りて荘中の氏神とす故に是を筒香明神といふ)

そは此神の居まく欲し給へる処なるにや

書紀に皇后御凱旋の後功勲を顕し給へる神等の功労に報ひ給ひて其鎮り座らんと欲し給へる処にそれそれ鎮め奉りし事を書して

稚日女尊誨之曰吾欲居活田ノ長海峡ノ国ニ因テ以海上ノ五十狭茅ヲ令祭 とあるは延喜式摂津国八部ノ郡生田神社なり

生田社当社と勲位も同等なるを見れは同神にて荒魂和魂を別ち祀れるにて住吉の神荒魂和魂を別ちて長門と摂津と両所に祭りしと同類ならむ

書紀に其偏を洩して載せさるとも下文引く所の播磨風土記に其漏せる方を書せは此二書を合せて此御神の事備はるといふへし)

是より一神両所に分れ立ち給ひて御名も別に称へ奉れるなり

(事代主ノ神初は阿波ノ国に座しゝに後皇后を助けて功勲を顕し給へるにより摂津国長田に鎮め奉る

式に阿波ノ国にては事代主神社といひ摂津国にては長田神社といふと同例なり)

然れとも旧一神なるを以て其間十余里を隔つといへども毎年九月十六日神輿玉津島に遷幸なし奉る

名つけて浜降の神事といふ(祭祀の部并せ考ふへし)

又紀伊国造と天野祝部とは共に天名草彦の子孫にして玉津島神は国造の斎ひ祀れる所丹生神社は天野祝部の斎き祀る所

神輿遷幸の事も日前宮の神職と共に同く事を執行ひし事皆異神ならさる証とすへし

此御神皇后を助け給へる事詳に播磨風土記に書せり [中略]

此御神かく異国降伏の功あるによりて弘安四年蒙古皇国を浸しゝ時も

当社の霊験殊に著るく勲功を顕はし給ふ故に和泉国近木荘を寄附せられし事あり

是故事に遵ひて御祈願ありしなり 当社初筒川藤代峰に鎮まり坐しに夫より処々に遷り給ひ

最後此天野の地に遷り給ひ永く此地に鎮り坐せり

 『播磨國風土記』則記載丹生都比賣神為國堅大神之女,

國堅大神就是使浮遊海面上的國土固定的伊邪那岐命與伊邪那美命。

在息長帶日女命(神功皇后)打算發兵平定新羅國之時,向諸神祈禱, 此時,丹生都比売神降下神諭,

並賜予赤土(朱砂)囑咐神功皇后: 「將槍鉾、軍衣與軍船皆以赤土(朱砂)染上紅色以壯大軍勢,將戰無不勝」。

神功皇后凱旋歸來後便在紀伊國(和歌山縣)管川藤代之峰奉祀丹生都比売神,以彰顯女神之功績。

然而日本書紀並無此記載,「紀伊続風土記」以為是闕漏,

並且認為丹生都比賣神與稚日女尊的關係乃同神之荒魂與和魂。